「現実感覚を喪失した戦後保守」

               『言志』編集長  水島 総


『言志』読者の皆様、明けましておめでとうございます。

本誌は、今年も「言志」の名前にふさわしい、「日本を主語」
とした言論潮流の確立を目指し活動を続けていきます。
 
より一層のご支援とご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し
上げます。


<安倍総理の本質に気付けない戦後保守>


正月2日、恒例となった靖国神社集団昇殿参拝と皇居一般参賀
を、約300人のチャンネル桜視聴者や「頑張れ日本!全国行動
委員会」の仲間とともに行った。

前日までの北風も止み、快晴の冬空の下、
天皇陛下のお元気な御言葉をお聞きすることができて、胸の
中にたまった「邪気」がすべて吹き払われ、日本の「正気」が
立ち戻った気がした。

その兆候はずっと前からあった。

昨年8月15日、私たちは、これも恒例となった靖国神社周辺を
巡る日の丸行進を行った。
その時のことだ。
行列が大鳥居前に差し掛かった時、突然、神社の方向から強風
が吹きわたった。
掲げられた日の丸の旗700本が一斉にはためき、その壮観さに、
見ていた人々からどよめきが起きた。
風は隊列が通り過ぎるまで続いた。

その日、支那人たちが尖閣諸島魚釣島に強硬上陸し、逮捕され
ていた。
私はこの風を英霊の「啓示」と受け止めた。
その4日後、私は仲間と共に魚釣島に上陸した。

靖国神社の「神風」は、その後も「奇跡」を起こし続けた。
安倍自民党総裁の誕生から、総選挙の大勝利で安倍政権が成立
するまで、まるで1年前には考えられなかったようなことが続い
て起きた。

安倍政権樹立の原因は、3年数ケ月にわたり日本を破壊し続け
た民主党政権の無能無策というだけではない。
その「邪気」の危険を日本国民が、意識、無意識に感じた「正
気」によって起きたような気がしてならない。

草の根の日本国民は、今、日本が非常に危険な時代に入ってい
ることを、政治家や経済人、マスコミなどよりも、はるかに敏
感に察知し始めている。
政官財やマスコミといった戦後日本の利得者たちよりも、日本
経済の衰退や日本の道義、道徳等の精神的な人心の荒廃を、よ
り直接的に肌身で感じている。

先日、チャンネル桜の討論で、経済評論家の三橋貴明氏が、
「私たちの世代は、戦後日本の成功体験を知らない。物心が
 ついたときには、衰退し続ける日本しかなかった」
と発言したのを聞き、はっとなった。
そうなのだ、40代以下の日本人は、戦後の復興も、高度成長も、
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」もまったく体験できなかっ
た世代なのだ。

どんどん駄目になっていく日本を見ながら育った若い世代と、
敗戦のどん底から、発展し豊かになっていく日本を体験した50
代以上の世代とは、危機感の深刻さにおいて、確かに埋めるこ
とのできない相違があるに違いない。

今、「戦後レジーム」の悪しき象徴と言ってもよいマスメディ
アが、急速に国民意識と乖離し続け、若い世代から見放され始
めているのは、単にインターネット手段や技術の拡大発展だけ
が原因ではない。
今の時代に対する彼らの「現実感覚」の圧倒的な欠如なのだと、
私は三橋氏の発言で気付かされた。

安倍新政権が、若いインターネット世代にかなり人気があるの
も、恐らくこの時代意識、危機意識の共有があるからだ。

安倍首相は、第1次安倍内閣の頓挫によって、奈落のどん底に
突き落とされた。
この深い挫折は、67年以上の戦後日本の発展と挫折と共通して
いる。

そこが、能天気にいまだ戦後日本体制を「改革と決断」のスロ
ーガンで延長させようとした野田民主党政権との本質的な差異
である。
「改革」や「維新」「決断」を売り物に選挙を戦った人々との
間にも、この「現実感覚」、すなわち、現実認識の根本的な差
異がある。

この日本の危機に対する現実感覚の欠如は、政官財、マスコミ
だけではない。
残念ながら、戦後保守と呼ばれる人々の中にも蔓延しているの
だ。

不本意なことだが、その一つの典型を挙げる。

昨年12月27日の産経新聞の「正論」欄に、評論家の遠藤浩一氏
の「安全運転だけの内閣でいいか」というタイトルの論文が掲
載された。
安倍新政権が、7月の参院選挙まで、憲法論議などの動きをとり
あえず封印し、経済再建を最優先しようという姿勢を危惧して
の「苦言」である。
結論部分を引用する。


 自公政権の復活は、言ってみれば3年4ヶ月前の「古い政権」
 の再現でしかない。むしろ「維新の会」などを巻き込むか
 たちで保守政党の合同を実現することによって、はじめて
 国家再建への展望が拓けるのではないかと思われるのだが、
 「安全運転」の自己目的化はその芽を摘むことになりはし
 ないか?
 そんなこと、新首相は、百も承知だとは思うが。


私は遠藤氏を知性感性共に優れた人物だと評価してきた。
9年前にチャンネル桜を創設したとき新進気鋭の遠藤氏に声をか
け、「解体新書21」という1時間のレギュラー番組を毎週やって
もらったのも、遠藤氏の才能を高く評価したからだった。
今もそれは変わらない。

しかし、今回の「正論」を読んで、私はしばらく呆然となった。
これまでも、私は戦後保守の思想やあり方を批判して来たが、
この遠藤氏まで、戦後保守の「毒」が回っているのだと気づき、
愕然となったのである。

まず、驚くのは、安倍新政権の進路を「安全運転」という言葉
で表現するあまりの能天気さである。
つまり、安倍政権のこれからの「進路」を普通の「道路」だと
思っているらしいのだ。

冗談ではない。
新政権の進路は、道なき道の荒野を進もうとしているのであり、
もし、道があったとしても、それはつるつるに路面凍結した危
険極まりない道だ。
それをチェーンやスタッドレスタイヤの装備なしに走行しよう
としているのである。

まして、公明党というエンジントラブルを起こしかねない欠陥
装備の車である。
まともな道にたどり着くまで、転落や人身事故などの大事故を
起こさぬよう、慎重の上にも慎重に進まなければならない状況
なのである。

もうひとつは、安倍政権が「奇跡」のように生まれた唯一無ニ
の政権だという現実認識の欠如である。
だからこそ、遠藤氏は「自公政権の復活は、言ってみれば3年
4ヶ月前の『古い政権』の再現でしかない」と述べてしまう。

しかし、今度の新政権は、前の自公政権とは「似て非なるもの」
である。

むろん、公明党は変わっていないし、自民党自体は今も旧態依
然の体質を遺した「戦後保守」のままだ。
だから、石原伸晃氏や石破茂氏が自民党総裁に当選していれば、
遠藤氏の主張は正しい。

恐らく、遠藤氏は石原慎太郎首相の大連立政権でも、石破茂政
権でも、同じ「保守」政権なのだと考えているのだろう。
だから「維新の会」を安倍政権と同類の「保守」だと見てしま
い、「維新の会」との保守合同を主張するのだ。

しかし、自民党は安倍晋三という人物が総裁に就任した。
これが決定的に違う。

あらかじめ言っておくが、私は安倍自民党と日本維新の会との
連携、連合を否定しているのではない。
しかし、今の時点では、最優先の目的ではないということだ。
参院選勝利の後にすべき行動だということだ。

実は、ここがいわゆる「戦後保守」と「日本を主語とした保守
」との決定的な違いが表れている点である。
両者はまさに「似て非なるもの」である。

一体、どこが違うのか。

例えば、反共反左翼主義(反中国共産党)である。
両者に一見したところ違いはないように見えるだろう。
しかし、冷戦時代のように、中国を共産主義国家だから否定す
るのか、地政学的に、現在の中国を政治イデオロギーを超えた
強欲な覇権侵略国家だから否定するのかの違いがある。

その違いは、わが国の米国に対する姿勢と距離の置き方に如実に
表れる。
日米は、同じ自由民主主義国家同士の価値観を多く共有している
が、同時に、米国は中国同様、自国の国益を最優先させる強欲な
覇権侵略国家という面も併せ持っている。

いわゆる親米戦後保守論者との違いは、この視点を持っているか
どうかだ。
わが国の外交を「日米関係を基軸」に考えるか、「日本を主語と
して」日米関係を最優先に考えるかは、「似て非なるもの」であ
る。

「戦後保守」と私たち「日本を主語とした保守」との本質的な違
いがここにある。
当然のことだが、米国は「米国を主語」にした外交を優先してい
る。

この意味で、安倍晋三という人物は、日本保守の最も正統な継承
者であり、「日本を主語とした」保守思想を有する数少ない政治
家である。

「似て非なるもの」は、皇室、靖国問題に対する姿勢に明確に表
れる。

第1次安倍内閣のとき、靖国神社に首相として参拝しなかったこ
とを、安倍氏は「痛恨の極み」と述べている。
「日本を主語とする」保守政治家としては、当然である。
靖国神社の英霊とともにあることが、日本人として当然だからだ。
身を斬るような思いとはこういう思いである。

しかし、靖国神社に毎年参拝する石原慎太郎氏は、いわゆる「A級
戦犯」を自分個人の頭の内で「分祀している」と述べてきた。
「私」を最も大事な価値とする近代保守主義者の石原氏にとって
は、私(個人)の頭脳の判断で英霊(神々)をこちらは悪い奴、
こっちはいい奴と分けられると思っているのである。

これこそが、欧米近代個人主義の傲慢の証しではないのか。

つまり、石原氏にとっての「靖国神社の英霊」は、あくまで
「私(石原個人)」が、考えて、選択した崇敬の対象でしかない。
「私」と英霊との間は、明確に異なる存在同士の関係であり、英
霊とともにあるという不二一体の意識ではない。

同様に、絶対に靖国神社には参拝しないと公言するクリスチャン
石破茂氏も、西欧個人主義者の発想をして、靖国神社参拝を否定
するのである。


<「私がなければ、皆、日本」>


実は、これらの発想の違いは、本質的なものである。

靖国神社参拝は、石原氏や石破氏にとっては、私(個人)の思想
的宗教的選択のひとつにすぎないが、安倍氏にとっては、靖国神
社参拝は個人的選択ではない。

安倍氏には、石原氏や石破氏のような、靖国神社を思想的にあれ
これ選別するような「私」はない。
安倍氏にとって靖国の英霊の悲しみや痛み、祈りは、「わがこと」
であり、英霊と安倍氏は、同じ「日本」として、あるいは「日本
人」として、「一体のもの」なのである。

つまり、安倍氏にとって、日本や靖国神社は、思想イデオロギー
であれこれ私的判断や選択するような対象ではなく、自分がまさ
にその一部であるという「当事者意識」が、「痛恨の極み」と言
わせたのである。

遠藤氏の論文の本質的な欠陥はこの当事者意識が薄く、日本およ
び安倍新政権を「わがこと」として評論していないことだ。
遠藤氏自身、心身すべてを賭けて「日本」として、その針路を考
えるという姿勢ではない。
まことに残念なことだ。

極言すると安倍氏は今、日本の未来は自分のこれからの行動に懸
っていると考えている。
自分こそが「日本」だと自覚している。
自分が倒れることは日本が倒れることだという、痛切かつ命懸け
の自覚で、政治を行おうとしている。

第1次安倍内閣で、安倍氏は立派な日本保守政治家、首相になろう
と決意し、日本国を「戦後レジーム」から脱却させようと努力し
た。
そういう意味でいえば、方向は、「ほれぼれするほど間違ってい
た」が、野田前首相も、よき総理大臣であることを目指していた。

今回の安倍首相との違いは何か。
安倍氏が日本をあれこれ「外部から」「改革」しようと思ってい
ないことだ。
自分の「病気」を治すような気持ちで、戦後体制の脱却を目指し
ているのである。

つまり、彼は医者として患者(戦後日本)を治そうとしているの
ではなく、病気の患者として、「当事者」として、医者を頼んだ
り、薬を飲んだり、食事療法をしたりと、自らの努力で自らの
「病い」を治そうとしているのである。

この点が、「日本を主語とする保守」と「戦後保守」との本質的
な差異である。

失礼ながら、遠藤氏が中心メンバーとなっている「国家基本問題
研究所」が、自民党総裁選や衆院選で、安倍氏支持を打ち出せな
かったのは、この「当事者意識」の欠如から来る現実認識と現実
感覚の欠如によるものと思われる。

一体、「戦後保守」の人々の現実感覚の喪失は、どのようにして
起こったのだろうか。

一般論で言えば、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)
が、日本国民に洗脳工作を施した東京裁判史観であり、もう一点
は、米ソの冷戦対決の中で反共自由主義イデオロギーをアメリカ
と共有するだけで、国家安全保障のアメリカ任せ状態を60年以上
続けてきた「戦後保守」政治家の無責任と怠慢である。

同時にそれを容認してきた戦後日本人の無責任と能天気である。

戦後60年以上、わが国の国防や軍事安全保障について、極少数の
人間を除き、ほとんどの戦後日本人には「当事者」意識がなかっ
た。
だから、保守左翼を問わず、戦後日本人は、架空の現実感覚しか
持てなかったのである。

つまり、「戦後保守」と呼ばれてきた人々にも、この日本国憲法
前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの
安全と生存を保持しようと決意した」という「毒」が回っていた
ということである。
「平和を愛する諸国民」とは、戦後左翼にとって、ソ連、中共な
どの社会主義国だったが、「戦後保守」にとっては、アメリカだ
ったのである。

私が尊敬してやまないドイツの作家トーマス・マンは、ナチスド
イツに追われて米国に亡命したとき、書斎の壁に「私のいるとこ
ろにドイツはある」と書いて張り付け、毎日、それを眺め、
「孤立」と戦い続けたそうである。

もう一例を挙げる。
禅学の大家・鈴木大拙が外国人に禅の本質を説明するとき、よく
使った言葉があった。

「私がなければ、皆、私」

これを「私がなければ、皆、日本」と言いかえることができるだ
ろう。

安倍晋三総理は、今「私」を棄て、「日本になり切る」道を歩も
うとしている。
日本の持つ傷や「病い」、苦難や困難を「わがこと」として、
引き受けようとしている。

今、私たち日本国民に必要なのも、アマチュア、プロを問わず、
他人事のように日本をあれこれ評論するのではなく、「私が日本
である」という痛切な当事者意識なのではないか。

比類なき偉大な実例がある。

天皇陛下である。

天皇陛下は、あらゆる私利私欲というものから離れ、
日本になり切っておられる。
私たち日本国民は、世界唯一の「奇跡」を現実に
目の当りにしているのである。

年頭に、改めて、私たちがこの日本に生まれた僥倖を、
共に喜び分かち合いたいと思うのである。


 去年今年 貫く棒の如きもの 虚子

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