「夢は枯野をかけめぐるが…」
『言志』編集長 水島 総
俳人松尾芭蕉の弟子其角の『枯尾花』に、
旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る 芭蕉
ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き
夢のさめたるはとて、旅に病で夢は枯野をかけ廻る。
また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さ
へ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔ま
れし。
8日の夜の吟なり。
と、芭蕉の臨終近き様子がつづられている。
遺句となった「旅に病で」の句は、芸術に終りがないことを芭蕉自
身が強く自覚しながら、それでも、妄執のように、作句を続けよう
とする芭蕉の凄まじく、ひたむきな姿が胸を打つ。
石原慎太郎都知事が辞任を表明した10月25日、テレビでその記者会
見を見ながら、この芭蕉最後の一句を思い出した。
石原氏はすでに齢80、ほぼ日本人男性の平均寿命に達している。
その男が都知事の職を放り出し、尖閣問題も放り出し、国政復帰を
宣言した。
芥川賞作家から政界に身を投じ、十数年前には国政に絶望したとし
て、都知事となって地方から国を変えることを宣言して、そして、
今回は地方から国を変えることを断念し、再び国政に復帰すること
を宣言したのである。
文学者としての道を捨て、政治行動に起ち上がり、挫折し、息子の
自民党総裁就任への夢も断たれ、それでも政治への執念を捨てず、
再度起ち上がる石原氏の姿には、胸を衝かれるものがある。
「不屈の精神」に感動するといった類のものではない。
石原慎太郎という政治家は、常に時代と戦いながらも、時代の求め
るものとずれて、つまづき、一度たりとも的を射ることができなか
ったという印象がある。
その無念さを抱えたまま、この齢に至っても、憂国の情や志の「再
生産」を繰り返す、その凄まじき姿に、ある種の「物狂い」を感じ、
胸を打たれるのである。
その執念を、人は「憂国の情」と言ったり、「妄執」、あるいは
「権力への執着」と言うだろう。
いずれも正しく、しかし、それだけではないことも確かだ。
私が思い出したのは、「ドン・キホーテ」(セルバンテス作)が、
風車を敵だと思い、立ち向かって行く姿である。
そして、今回の新党立ち上げは、戦後日本の「ドン・キホーテ」石
原慎太郎の最終最後の戦いとなるだろう。
しかし、それは「枯野をかけ廻る夢」だけで終わる可能性も強い。
なぜならば、「枯野」というのは荒廃し切った戦後日本体制と言え
るだろうが、この「枯野」に巣食うさまざまな「枯れ尾花」たちと
一緒に「かけ廻る」ことで、展望などは拓けないからだ。
石原氏は、もっと、「暴走老人」としてラジカルに暴走する必要が
ある。
「枯れ尾花」たちを含め、枯野全体を焼き尽くす覚悟が必要なので
ある。
それは自分自身をも、「枯れ尾花」の一つとして、焼き尽くす自己
否定の強い覚悟が必要なのである。
はっきり言って、石原氏がそこまでの覚悟を持って起ち上がったよ
うには思えない。
石原氏は「小異を残して大同につく」という言葉や「薩長連合は考
えや方向も違っていても成立した」という言葉で、維新の会やみん
なの党、たちあがれ日本などとの連合を想定しているようだ。
おそらく、近い将来には、自民党の一部(息子グループ)や公明党、
そして野田佳彦首相たち民主党(似非保守)グループも予定に入っ
ているだろう。
これは、読売新聞社代表取締役会長・主筆の渡邉恒雄氏の提唱した
「大連立構想」とベースを同じくしている。
その大連立上に、石原氏は自らが「総理」として君臨するという最
後の政治的夢の実現を考えているのだろう。
これは私の「妄想」ではない。
可能性は低いが、それしか石原氏の「夢」の実現はないからである。
今、石原氏が、連携しようとしている相手は、装いはともかく、す
べて「戦後日本体制」が生み出した「枯れ尾花」に過ぎない。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」なのである。
恐ろしいことだが、石原氏自身も、「幽霊」として、老残の「夢」
として、見果てぬ未来を求め、凄まじき修羅の如く、「枯野」の
同じ場所を「かけ廻って」いるだけかもしれないのである。
しかし、それが「悲しき日本」(釈迢空の言葉)の夢のひとつであ
ったことには違いない。
文学者としても、政治家としても、石原氏は、戦後日本を最大限に
否定する者でありながら、しかし、石原氏の立脚点は、西欧近代主
義であり、戦後日本体制の土俵上にあった。
一言で言ってしまえば、戦後日本体制の土俵に乗ったままの「体制
内改革派」に過ぎない。
石原氏の戦後日本批判の本質は、アメリカやイギリスといった西欧
諸国のような「普通の国」の保守思想の側から、戦後日本の「日本
国憲法前文」的な世界を批判し、否定しているだけなのである。
つまり石原氏自身が西欧近代個人主義者であり、そこから2000年の
伝統文化の「日本」は、見えてこない。
ここが、三島由紀夫氏の「日本」を主語とした保守思想と根本的に
異なる点である。
石原氏の思想には、皇室を中心とした世界最古の歴史と伝統を持つ
「日本」が、その中心に据えられていない。
石原氏は、西欧近代の保守思想の視点からいえば、十分すぎる「保
守主義者」であり愛国者なのだが、2000年の長い本来的な「日本」
から見れば、まことに「日本」が足りない思想的グローバリストな
のである。
それは、石原氏の大東亜戦争に対する姿勢にもよく表れている。
大東亜戦争の意義は、人類の歴史の中で、ずっと続いて来た白人中
心の世界文明秩序に対して、有色人種が近代に至って最初に起こし
た「異議申し立て」だった。
近代世界における最初の世界規模の「文明の衝突」でもあった。
また、天皇を中心とする八紘一宇という「家族のような国」日本が、
世界唯一、日本独自の「価値観」を以って、西欧的価値観とぶつか
り合った、西欧文明対日本文化の戦いでもあったのだ。
結果として、武力と物量で敗れたりとはいえ、精神面や世界観で敗
れたのではまったくなかった。
戦後日本人の大きな間違いはここにある。
いくら占領軍の総力を挙げて全国的洗脳工作(W.G.I.P.=ウォー・
ギルト・インフォメーション・プログラム=東京裁判史観)を行っ
たとはいえ、昭和天皇が「終戦の詔勅」で国民に伝えられたことを、
私たち戦後日本国民はほとんど守ろうと努力しなかったのである。
西欧の社会契約論的な国民国家群に対して、日本が提起し、明らか
にしたのは、皇室を中心とした家族のような国家としての世界観や
価値観の圧倒的な優位性だった。
それは皇室自身が持っている道義や正義の面だけではなく、寛容性
や人種平等や平和を求める高い道徳性に根ざしていた。
西欧近代国家が、テンニエスの唱えた、相手を自己実現の「手段」
として見てしまう「ゲゼルシャフト」的社会が中軸にあったのに対
し、日本の提唱した「八紘一宇」の国家思想は、共に生きること自
体が「目的」の「ゲマインシャフト」的社会の実現であり、21世紀
の世界人類的な意味においても、日本の価値観の優位性は明らかだ
った。
残念ながら、石原氏にはこの視点が欠けている。
自決した三島由紀夫氏にあって、石原氏にないのが、この「日本」
を主語とする思想なのである。
三島氏との対談で、石原氏は個人中心主義を主張したが、三島氏か
らは個人をなくすことのできない思想は「卑しい思想」だと喝破さ
れ、一刀両断されたのも、このわが国の長い伝統文化の21世紀的、
全人類的な優位性を自覚できないことから来ているのである。
石原氏の立脚点は、西欧近代主義的「個人主義」であり、大阪の橋
下氏と通ずるものはそこにあるのだろう。
しかし、同時に、それは「戦後保守」の最弱点と限界でもある。
石原氏は、戦後日本社会が生んだ「戦後保守派」として、最良の存
在だった。
しかし、それはノーベル賞候補作家村上春樹氏が、日本の戦後左翼
の最良の存在であったようにでしかない。
<石原氏は国民を信頼していない>
私たちは石原氏に最大の敬意を払いながら、しかしはっきりと別れ
を告げなければならない。
さびしく悲しいことだが、その時が来ている。
石原氏が、枯れ尾花たちを集めて、枯野が変えられると夢見ている
限り、私たちはもう彼とともに歩むことは出来ない。
石原氏は、一見、最も近い思想にいるような「戦後レジームからの
脱却」を主張する自民党新総裁安倍晋三氏とは、共に歩もうとして
いない。
それは、前述したように、石原氏が、戦後体制そのものを否定する
立場に立てぬ戦後「体制内改革派」だからだ。
安倍晋三氏のラジカルな「危険性」は、戦後体制そのものからの根
本的脱却を目指していることであり、本来の「日本」への回帰があ
るからだ。
私たちがいつも感じている石原氏の安倍氏に対する「冷淡さ」は、
息子伸晃を打ち負かして総裁の椅子を奪ったからだけではない。
安倍氏が石原暴走老人をはるかに上回るラジカルで危険な存在だと、
気づいているからなのである。
安倍氏が「戦後レジームの脱却」を主張するのに対して、石原氏は
「官僚支配の打破」を主張する。
ここでも、両者が戦後日本の問題点をどのように考えているかが鮮
明となっている。
つまり、両者は、言葉としては戦後体制打破を主張しているが、石
原氏は戦後日本の体制をつくり上げたアメリカを中心とするポツダ
ム・ヤルタ体制を問題にしていない。
頭のいい石原氏が知らぬわけはないし、あえて言及しないと考える
のが普通である。
つまりそこから見えてくるのは、戦後「親米保守」の「最優等生」
の姿なのである。
アメリカ占領軍が行った徹底的な「東京裁判史観」の範囲内での最
右翼の愛国行動であり、しかしその本質は、親米「戦後保守」の範
疇を出ていないのだ。
ここが決定的に「危険な」安倍晋三氏の主張と異なる点である。
非常な国難状態にあるわが国にとって、さまざまな「枯れ尾花」た
ちを含め、「枯野」=戦後日本の体制そのものをすべて焼き尽くす
戦いを、戦略的に、したたかに進めていかなければならない。
きつい言い方になるが、枯れ尾花たちを集めて「救国」ごっこを夢
見ている時間はない。
もう一度、あらためて、石原氏への「惜別」の理由をまとめてみた
い。
それは私自身の「戦後保守」と呼ばれる人々への惜別となるからだ。
石原氏が今、進めている政治的方向は、本質的には、読売新聞の渡
邉恒雄氏や森喜朗元首相などが企み、石原氏の息子伸晃氏を首相に
して、自民、民主、公明、維新、みんななどを巻き込んだ自称「救
国」「大連立」安定政権構想の焼き直し、再実行ではないかと思え
る。
ここで、注目しておかなければならないのは、公明党である。
公明党の政治思想は、基本的には維新やみんなの党と近いリベラル
な立場にあり、自民党より「第3極連合」に親近性を持っている。
もし、総選挙の結果、自民党が大勝すれば「自公連立路線」を続け
るだろうが、自民党が辛勝という形で終わるならば、政界全体の
キャスティングボートを握るため、「第3極連合」と連合する可能
性が高い。
ナベツネ氏の進める「大連立構想」に公明党は含まれている。
石原新党はナベツネ氏の構想と連動する形で提起された可能性が高
いし、この構想の「焼き直し」である可能性も高いと言わざるを得
ない。
安倍自民党総裁の誕生は、「大連立」構想派にとって、想定外ので
きごとだった。
石原伸晃氏が自民党総裁になることで、大連立が成立するはずだっ
たからだ。
この大連立の流れを中断させたのが、安倍自民党総裁誕生だった。
子供が無能無力で討ち死にしたのを見て、敵討ちに親が出て来て、
子供の「遺志」を実現するため、国政復帰をした可能性も否定でき
ない。
石原氏は人々が考えるほど、「暴走老人」ではない。
さまざまな政治的計算ができる老練でしたたかな政治家である。
ナベツネ氏を代表とする「戦後マスメディア」の「裏」支援の約束
があったと考えてもまったく不思議はない。
私の見た限りでは日本テレビなどのテレビメディアも、ニュースシ
ョーやワイドショーでも、安倍総裁誕生の時よりも、陰湿なネガテ
ィブキャンペーンや主張はなかった。
例を挙げれば、テリー伊藤という過激派くずれのタレントは、安倍
氏の総理辞任について、「あれは病気でやめたんじゃないですよ。
実績が上げられなかったので放り出したんです」と、とんでもない
嘘を番組で述べ、誹謗中傷していた。
それに比べると、石原氏の辞任はあからさまな中傷を受けずに済ん
だようだ。
なぜなら、石原氏の言動は一見「過激」に思われるが、実は日本の
戦後体制を根本から否定するようなラジカルな本質は持っていない
からだ。
アメリカが公認した「戦後保守」の範囲内での最右派であり、安倍
晋三氏の主張するような戦後体制の根底的な否定や超克を主張しな
いところに本質があるからだ。
大同団結、または小異を残して(捨ててではない)大同につくとい
う言葉はどうなのか。
小異や大同の意識は個々に異なるものだが、大同を考えるとき国民
国家の3要素を考えざるを得ない。
主権、国民、領土という3要素を考えるとき、いま日本に起きてい
る中国の尖閣、沖縄侵略という事態にどう対処するのかを考えれば、
まず、国防安全保障の面で「大同団結」をすべきなのは言うまでも
ない。
国民の生命財産と領土保全も同様である。
ここまでだけでというなら、社民党や共産党を除けば、ほぼどの政
党でも「大同団結」なるものができるだろう。
総選挙後の安倍新政権も、この点の「大同」を求めていくだろう。
しかし、「主権」の問題が出たとき、安倍氏と石原氏は、決定的な
分岐点に立って、別々の道を歩まざるを得なくなってくる。
戦後日本の延長線上の「体制内改革」なのか、戦後日本からの体制
脱却なのかで、方法も戦略も変わってくる。
石原氏は、この「大同」につくことを「薩長連合」に例えて、思想
が違っても必要なときには連合するのだと主張する。
しかし、この薩長連合には、明確な「倒幕」という大目標があった。
この大目標「倒幕」を現代に当てはめれば、「日本の戦後体制の打
破」であり、いわゆる「戦後レジームからの脱却」である。
石原氏や維新の会の橋下氏が言うような中央官僚機構と官僚制度の
打破ではない。
つまり、本当に薩長連合を結成したいなら、石原氏は、まず、安倍
自民党総裁との連携を求めるべきはずだが、石原氏自身の「戦後保
守」的本質は、それを選択できず、近親性のある維新の会やみんな
の党を選んだのである。
ドイツの作家トーマス・マンの有名な「政治を軽蔑するものは、軽
蔑すべき政治しか持つことができない」という言葉があるが、石原
氏も自らの文学活動を捨て、国政に参加し、そして、国政に絶望し
たとして、地方から国を変えると都知事になった。
14年後、再び、地方から国を変えられなかったと、国政復帰を決め
た。
その高い志は買うとしても、果たしてそれは正しい行動だったのか。
残酷な言い方になるが、各分野に挑戦しては、「失敗」と挫折を繰
り返し、ただあちこちをさまよっていただけかもしれないのである。
今回の生涯最後の挑戦も、同じ繰り返しなのではないか。
そして、今回の都政を放り出し、尖閣問題を放り出したことは、地
方から国を変えるという「草莽崛起」の思想をも放棄したことにな
る。
はっきり言って、中央のごみ溜めのような政党や政治家を糾合して
新党をつくるなどというのも、「草莽崛起」(そうもうくっき)の
思想とはかけ離れた方向だと断ぜざるを得ない。
<国民よ、燎原の火を起こせ>
日本の歴史は、大化の改新を除き、中央から国が変わったことがな
いと、よく言われる。
確かに、地方から国(中央)に攻め上る力が、常に日本の歴史を変
えてきた。
文学者の鋭い人間観察の素質がそうさせるのかもしれないが、石原
氏には、どうも草莽の「国の民」を信じる気持ちが薄いように思わ
れる。
個々の民は弱く、絶望的に見えるかもしれないが、私たちは世界最
古の歴史と伝統を育んできた皇室と無数の祖先たちの末裔である。
その民族の「遺伝子」を信じられないところに、愛国者にして西欧
近代個人主義者石原慎太郎の悲しき限界があるように思えるのであ
る。
今回の石原都知事辞任劇と新党結成行動を見ながら、私自身は、あ
らためて今行っている「日本を主語とした国民運動」とそれを支え
る「草莽崛起」の思想の正しさを確信したように感じている。
尖閣購入問題で、草莽の日本国民の先頭に立ったかのようだった石
原慎太郎氏は、今「枯野をかけ廻る」凄まじき老残の「夢」と化し
てしまったように思われる。
戦後日本と戦後保守のスターだった石原慎太郎氏に、静かに別れを
告げたいと思う。
私は神道と禅仏教を信ずる人間だが、「草莽崛起」のあり方をよく
表現した東嶺禅師の言葉を紹介しておく。
路傍の石ころはどんなに磨いても金剛石(ダイヤモンド)
にはならない。
しかし、石を磨き、石ころと石ころをぶつけ合えば火花が
出る。
その火花は燎火(かがり火)となって山野を焼き尽くす力
となる。
禅を少々学んで以来、この言葉は、吉田松陰の言葉「草莽崛起」の
本質を言い得た言葉だと思って来た。
今や全国各所で、草莽の火打石が「種火」をつくり始めている。
枯野と枯れ尾花を焼き尽くす準備の「時」が満ちはじめている。
私たちは、「草」として、また「石」として、その本領を発揮すべ
き時と時代を迎えている。
畔の草 召し出だされて 桜かな
(特攻隊員の遺句より)