【巻頭エッセイ】
「チベットの奇妙な果実」
日本文化チャンネル桜代表 水島 総
ジャズの名曲に「奇妙な果実」という曲がある。
女性ジャズシンガーのビリー・ホリデーの代表作だが、この奇妙な「果実」
というのは、実は黒人が白人たちのリンチに遭って木に吊るされた姿を
表している。
「奇妙な果実」は人種差別を告発する政治的主張の音楽であると同時に、
その音楽性の高さと深さが、ある特別な(奇妙な)美しさで胸に迫ってくる。
人間というもののどうしようもない救いがたさ、やり切れなさ、それに
対する怒りや悲しみが、美しさと化し、静かに、潮が満ちるように胸を一杯
にさせるからだ。
なぜ、人はかくも残酷であるのか。
なぜ、人はかくも卑小なのか。
なぜ、人はかくも淋しいのか。
なぜ、人はかくも悲しいのか。
そして、なぜ、こんなとんでもない人間共が、かくも愛しいのか。
「奇妙な果実」が私たちに伝えてくるものは、単なる政治的プロテストだけ
ではない。
殺される側だけではなく、殺す側にある、人としての救いがたさ、やり切れ
なさ、切なさが、我が事として胸にしみてくるのである。
二月九日、チャンネル桜では、中国共産党によってチベット人が虐殺され
続け、仏教僧たちが、次々に焼身自殺を遂げているとの報道を行い、
三十五歳の尼僧の焼身自殺の映像を放映した。
その夜、久しぶりにビリー・ホリデーの「奇妙な果実」を聴いた。
その時、頭に浮かんだのは、バッハの「マタイ受難曲」の「憐れみたまえ、
我が神よ」の一節だった。
「マタイ受難曲」は、私にとって、これまで出逢った最高最大の音楽であり、
人類全体の大遺産だと思っている。
大げさな言い方になるが、もし、いつか人類が滅びたとしても、バッハの
「マタイ受難曲」が創られたというだけで、この宇宙に人類が存在した価値
があると思うくらいだ。
それはともかく、私は、「マタイ受難曲」の中の「憐れみたまえ、わが神よ」
という一節と「奇妙な果実」が、根っこのところで、通底しているのを感じた。
人が生きるということは、それ自体で悲しく苦しいものである。
私たち人間は、そういう生を黙々として受け入れ、死を迎えるまで、生き
続けていく。
そういう人の姿の中に、私たちは普遍的な哀しみを感じながら、にもかか
わらず、同時に、人が常に希望し続ける事にも気づいている。
絶望すら、希望の裏返しである事を、私たちは知っている。
だからこそ、「奇妙な果実」も「マタイ受難曲」も、素晴らしく美しい、そして
悲しい。
ジャズとクラシックという音楽ジャンルを超え、ふたつの曲が総力を尽くして
表現し、通底しながら共鳴しているものは、人間の魂の叫びである。
それは時代や民族、国境をも超え、私たち人間すべてに訴えてくる。
改めて音楽というものの素晴らしさ、偉大さに圧倒されたのだが、それにし
ても、音楽や詩が無かったら、人類はどんなに淋しく野卑でつまらぬ存在
だろうかと、その荒涼たる有様が想像できる。
音楽と詩の心を私たち人間が喪ったとしたら、憎悪や猜疑、恐怖と暴力、
そして嘘と誹謗、悪口雑言、卑劣と卑小、こういったおぞましい人間の
持ち物だけが、地上に噴き出て、拡散し、私たちを絶望の淵へと追いやる
だろう。
しかし、気高い音楽は、まるで「禊ぎ」や「お祓い」をするかのように、
私たちの心や魂の穢れや塵を洗い清めてくれるのである。
チベットの若い尼僧の焼身自殺映像は、改めて「(私たち人間を)憐れみ
たまえ、我が神よ」というフレーズとメロディーを思い出させた。
「奇妙な果実」は、二十一世紀に入った今も、我がアジアで、日々、現在
進行形で、生み出されている。
中国の共産ファシストへの怒りと共に、これをほとんど報道しない我が国
のマスメディアにも、言い知れぬ怒りを覚える。
また、日頃、人権やヒューマニズムや反権力を叫んでいる左翼や市民団
体、人権団体が、全く中共への抗議の声を挙げない事に、怒りを超えて
憎悪さえも感じてしまう。
そして、こういう連中の体質と本質が、中国共産党を構成する支那人たち
とほとんど同じである事に、同じ日本人として、ほとんど絶望感を抱くので
ある。
悲しいのは、こういうイデオロギー左翼の人達が、あの焔に包まれながら、
最後まで真っ直ぐに立っていた尼僧の姿に、何の痛みも感じないようだと、
想像できることだ。
人は、かくも簡単に、人としての真っ当な感情をイデオロギーで消失させる
事が出来、人間としての退廃に気づかない。
この厳然たる事実に、暗澹となるのである。
原発の放射能が怖い怖いと叫び回り、鳴り物入りでデモをしたり、国民に
所以無き恐怖心を煽りたてている人々、例えば反原発男で有名となった
俳優の山本太郎などは、こういう現実に、どういう態度を示すのだろうか。
映像の焼身自殺を遂げた女性パルデン・チョツォさんは、石油を全身に
被るだけでなく、石油を飲み、自らの身体に火を放ったという。
その気高い焼身の姿は、単なるチベットの自由と独立を求める抗議だけ
を意味していない。
仏教には、人々(衆生)の幸せの為に、自らの身を棄てて、衆生の為に
自分の心身さえも、供養に供するという教えがある。
彼女の姿が、私たちのまぶたに焼き付いて、恐らく永久に離れないのは、
その仏の教えを究極的な形で実践した気高さゆえだろう。
まさに「即身成仏」を彼女は実践し、果たしたのである。
キリスト教やイスラム教は、殉教を高く評価するが、彼女の行為は自殺
ではなく、供養という行為であり、仏教的な殉教なのである。
私は、キリスト教徒ではないが、キリストや聖書の教えの素晴らしさは、
人間存在の限界と悲しさを知り尽くしているところにあるという気がする。
唯物論のマルクス主義者や鈍感で中途半端な近代個人主義者、無神
論者は除くとして、多くの人々は「大人」になったとき、自分の不完全さと
欠陥、限界を嫌というほど経験する。
そして、他人も、社会も、国も、世界も同様なものだと自覚するのである。
そこから、私たちは、悲惨な世界が、自分自身がそうであると同様、簡単
に変わらぬものであることを知り、一歩一歩、歩みを進めていく他ないこと
を溜息と共に自覚する。
以前にも書いたが、若い頃、私の大人としての「生き直し」は、「世界が
悲惨なのは、俺自身が悲惨な奴だから」という痛切な自覚だった。
世界が悲惨と滑稽に満ち満ちているのは、社会だけが悪いのではない、
政治家だけが悪いのではない、国だけが悪いのでもない、私自身、私たち
人間自身の内に、この悲惨と滑稽を内包しており、私たち自身が原因なの
だという痛すぎる発見と自覚だった。
これは、一種の宗教的感情でもあり、分からぬ人には仕方ない。
つまり、世界をどう変えるかを考える以前に、まず、世界を変える資格
そのものがお前にあるのかと、根本から自分に問うことが、全ての出発点
になるからである。
キリスト教徒は、アダムとイブの物語に象徴される「原罪」の痛切な自覚
から、偉大な唯一全能の神の下に集い、救いを求めることになる。
無理も無いことだと、私には心底納得出来る。
戦後日本にごまんといる「無神論者」が偉いのではない。
彼等はただ鈍くて無神経なだけなのだ。
その連中の典型が、日本左翼であり、市民運動家たちである。
一方、仏教徒は世界の悲惨や滑稽を、悲しみや喜びも、無限の縁で繋が
ったすべて夢のごときものとして、そこからの超脱を生の実践(生きる)の
中で目指すのである。
「諸悪莫作 衆善奉行」という仏教の言葉があるが、悪いことは出来るだけ
せず、善いことを出来るだけ行おうという意味である。
単純なことだが、前提として、徹底的な世界の悲惨と限界、自分自身の
悲惨と限界の自覚を出発点としている。
私自身の出発点ともなっている言葉だ。
一見単純な言葉に視えるだろうが、本気で真剣に実践するとなれば、
実に難しい。
国民運動を実践している中で、私たちは悪しきもの、卑劣なものを否定
し、批判、非難しなければならない。
それは徹底的にする場合もある。
進む道を分かつ事も起こる。
それは仕方ないことだ。
ただ、そういう状況の中で、私自身、唯一、善き部分があるとすれば、
仏教的視点をかろうじて保ち、憎悪や妬みで、事を起こさないところだと
思っている。
仏教は近代主義的「個人」を幻想として否定する。
個人の限界を自覚させ、他者や自己嫌悪すらも、それこそが私たちが
全て持っている「仏性」に目覚める原因=種と見るのである。
道元禅師の師であった宋の如浄禅師は、その教えの真髄を
「心塵脱落」とした。
そして、日本曹洞禅を開いた道元は、その教え(悟り)の真髄を
「心身脱落」とした。
これは言葉の変化だけを意味しない。
中国禅から日本禅への根底的な深化と大転換の象徴として、
「心塵脱落」から「心身脱落」への変化がある。
禅仏教は、日本で完成したと言ってもいいのだ。
この辺の事については、長くなってしまいそうなので、別の機会にしたい
と思っているが、驚くべきことに、これを生身の姿で実践してきた存在が
日本にはある。
百二十五代にわたる天皇の存在である。
天皇を中心とする皇室と皇統の底知れない知恵は、仏教やキリスト教
とも通底し、それを包含し、そして、実際のいのちある生身の存在として、
二千六百年以上あり続けてきた。
我が国は、神武天皇以来、八紘一宇の家族のような国を目指した国家
である。
「奇妙な果実」とは対極の世界である。
この偉大な潮流は、世界無二、唯一無比のものであり、外国から渡来
した仏教ですら取り込み、変容させてしまう大きく深い潮流で、今もあり
続けている。
実は、私たちは天皇の存在に、仏を見たり、神々を見たり、
先祖を見たり、宇宙を見続けてきた。
今もそれは続いている。
今日は、その出発点となった紀元節である。