【巻頭エッセイ】
「三千世界のカラスを殺し……」
日本文化チャンネル桜代表 水島 総
昔話になるが、学生時代に、戦後教育とマルクス主義的発想の呪縛を
抜け出すきっかけがあった。
ゲーテの『ファウスト』を読み終わったときだ。
終わりの部分で干拓事業に励む人々の姿を見て主人公は
「時よ、止まれ、おまえは美しい」という言葉を発する。
私はこの言葉にかなりの衝撃と感動を経験したが、頭の何処かで
何か違和感に似たものを感じて、その意味を考え続けた。
当時の私の研究テーマは、ヨーロッパ近代主義批判だったが、ふとした
時、このゲーテの言葉は、人が自然を人間化していく姿を永遠の美と
して描いているが、時間の流れを止め、現在を生きようとする姿は、
ヨーロッパ近代の理想像を表しているのではないかと気づいた。
そして、思い出したのが、初期のマルクスの『経済学・哲学草稿』等に
記述されていた彼の世界観だった。
左翼全盛の時代にあって、私は一体マルクスはどんな世界観、
人間観を持っていたか非常に興味があった。
その概略を言うと、
「人間は自然の一部であり、自然を人間化し、人間を自然化するとき、
人間の疎外を止揚することが出来、人間は本来の自分らしさ、
人間らしさを取り戻せる」
といったものである。
私は、マルクスは自分の思想のインスピレーションをゲーテの
『ファウスト』から受けたのかもしれないと思った。
初期のマルクスの世界観は、一見、正しいように見える。
恐らく左翼やサヨク的な傾向の人々はその通りだと言うに違いない。
自称保守の人間も肯定するかもしれない。
しかし、宇宙の創生や天文学に興味を持っていた私には、ゲーテの
『ファウスト』の言葉同様、あるいはそれ以上、何か違和感を感じた。
何かおかしい、何か誤魔化しがあると感じた。
その頃から座禅の真似ごとを始めたり、仏教書を読み始めた影響も
あったと思う。
そして、気付いたのは、マルクスの思想には、現在を生きる人間の
「時間」しか無く、過去現在未来と連なる縦軸の「時間」が欠けている
ことだった。
同時に、あっと気づいたのは、自然を人間化し、人間を自然化すると
いう、弁証法的に両者の相互浸透で人間疎外を止揚させようとする
理屈は、大宇宙の中のちっぽけな人間存在と大自然とを「同等」に
見立てている発想であるということだった。
これこそが、ルネサンス以来のヨーロッパ近代主義の限界と致命的
欠陥なのでは、と私は思った。
人智などを遥かに超える大自然の「想定外の」空間と時間に対して、
たかだか生まれて数百万年の宇宙の一瞬の砂粒にもならぬ人間
存在を、同等に看做す畏れを知らぬ発想こそが、傲慢な人間中心
主義のヨーロッパ近代思想を生み、ついにはマルクス主義を生み
出した「原点」なのではないかと気づいたのである。
日本の近代保守主義者の例を挙げると、靖国神社の英霊を自分の
頭の中で「分祀」していると言った政治家がいたが、
同様の発想である。
自分の個人的脳髄で英霊の皆様を善い英霊と悪い英霊(A級戦犯)に
分けられると考える発想こそ、傲慢な近代人間中心主義思想である。
人間存在などを遥かに超えた無限大の時間と空間を有した「何か」が
在り、私たち人間もそのごく微かな一部だが、それ以上でもそれ以下
でも無いという厳然たる事実、これが古来より日本人やアジア古モンゴ
ロイドが抱いて来た世界観だった。
この個人的な「思想体験」によって、以来、私は戦後教育の中に潜む
マルクス主義の影響の残滓を完全に払しょくし、「日本」に帰る道を
歩むことが出来たと思う。
なぜ、こんなに思い出話を書くかというと、今起きている脱原発ヒステリー
とも言うべき大衆社会現象について考えた時、このマルクスの世界観を
思い出したからだ。
まさにこのマルクスの近代主義の思想的欠陥が、脱原発反核反原発の
人々の中に、また、戦後日本社会の中に、今の今まで脈々と生き続けて
いたことを実感したからだ。
来月号の雑誌『正論』「映画『南京の真実』製作日誌」にも書いたが、
宮城県山元町は、町の約四割がほぼ壊滅し、約八百人が犠牲となった
町である。
ここに私たちは四回、救援物資を運び、取材をしたが、ここで出会った
のが、齋藤俊夫町長だった。
町長の話だと、全国各地から大変良い条件で避難先の受け入れ表明が
あったそうだが、町民の誰一人として町を離れることを望まなかったという。
善意の申し出も、それを断った住民も素晴らしい。
人が生きるにあたって一体何が大切なのかを、ここの住民は本能的に
感づいていたのだ。
再び襲うかもしれない地震や津波による死の恐怖よりも、あるいは他所
での安心安全な生活や物質的充足や満足よりも、大事なものが在ること
に気づいていたのだ。
多くの家族や隣人知人が亡くなったこの故郷の地で、生き残った隣人
たちと共に、生き、死んでいくことを望んだのである。
近代個人主義に毒された頭では到底理解できない山元町民の選択が
そこにあった。
町長は住民のそんな思いを実践に移した。
仮設住宅の入居方法について、無作為の抽選や老人や障害者等の
社会的弱者を優先させる方法を採用しなかった。
彼は各町内や地域単位ごとに入居者をまとめて優先入居させ、
仮設住宅地に地域集合体を復活させた。
仮設住宅に入居した老人や障害者が、見も知らぬ人たちに囲まれた
新しい環境に戸惑い、孤立感を深め、ストレスから死亡に至るケースが
多々報告されているからだ。
「命は大切」の理屈だけで、ただ公平を希求し、弱者を優先するだけの
浅薄な社会契約論的人間観や似非ヒューマニズムでは、
こういったケースはカバー出来ない。
物質的な充足や満足、システムの改善を行えば、人は幸せになれると
考え、信ずるのは、唯物論に毒された浅薄な進歩主義思想に過ぎない。
原発を自然エネルギーに変えれば、物事が何か解決に至ると考える
のも、同様な近代主義的唯物論である。
その権化たるマルクスは、人が作った歴史なら人が変えることが出来る
と言ったそうだが、エネルギーの安定供給を、原発から自然エネルギー
に手段を変えればうまくいくはずと考えるのも、同じ発想ではないか。
私たちは二万五千人以上の犠牲者を出して、大自然の力が、
人智を超えた予測不能、コントロール不能な理不尽さに溢れたものだと
学んだはずだった。
しかし、反原発、脱原発に転じた人々は、その大自然エネルギーを
自分たち人間の力でコントロールし、利用しようと主張している。
地熱発電の場所は、いつ火山爆発やマグマ噴出があってもおかしくない。
風力発電や太陽光発電など、地球環境の変化でいつストップするか
分からない。
海流発電もエルニーニョ現象を見ればいかに危ういかは理解出来る。
しかるに、彼等は大自然をコントロールしよう、出来るのだと
信じているのである。
何と傲慢で能天気なことか。
同時に、彼らは未曾有の天災が起こした原発事故を、原子力を扱う人々
の「人災」に矮小化したばかりか、原発を人間ではコントロールできないと
主張している。
ここで、忘れてはならないのは、脱原発という主張は、結局、
脱原発という行為も含め、全ての物事は人間の力で何とか出来るという
傲慢な近代主義的発想そのものだということだ。
東日本大震災が、私たち戦後日本人に教えたのは、
人智や人間の力を遥かに超えた「大きなもの」が存在すること、
そして、人は何時何処でも、自分のいのちを落とすか分からない
無常有限の時間を生きていること、また、
人は先祖たちが営々として築いてきた伝統や文化風習の共同体に
生きていること等、日本人がこれまで持ち続けて来た
世界観と死生観の再確認だったはずである。
近代個人主義や唯物論的世界観の社会には、進歩するシステムや
制度の想定はあっても、人間の生命の有限性、「人は死ぬ」という
時間性(伝統文化)を突破できる論理はない。
日本復興は日本の伝統に立ち返ることから始められるべきなのだ。
先日、チャンネル桜の討論で京都大准教授の中野剛志さんが
面白い事を言っていた。
菅直人首相が辞めると言いながら中々辞めない姿は、
脱原発を主張している人達と同じだと言うのである。
現実的に原発を直ぐ止められないのは分かっているのに、
止めろ止めろと騒いで誤魔化しているだけと言うのである。
確かに、脱原発派の人に現実の方策を問うてみると、十年や二十年
かけて原発を減らしながら自然エネルギーに変えていくのだという。
何の事はない。
原発維持派が、それが出来るならと言っていることと同じなのだ。
つまり、いつか辞めると言いながら辞めない菅首相と、口だけは脱原発
を連呼しながら、原発を直ぐに止めない人々の「ペテン師」ぶりとは、
戦後社会の生んだ偽善と欺瞞の同じ穴のむじなに過ぎない。
「いのちが大切」「国土汚染を防げ」「子供を守れ」等という事は
誰にでも言える。
そう言ったり、そう書いたりすれば誰からも非難されない。
しかし、偽善であり、欺瞞である。
恐らく脱原発を主張する人々でも、少々理性のある人間なら
分かっているはずだ。
文明には後戻りできないことが厳然と在ること、
人間の歴史は白紙に絶対戻せないこと、
間違ったからチャラにして、もう一度人生やり直しが出来るほど
世の中は甘くないことを。
原爆を作ったのが間違いだったから、核廃絶をなどと言って、
世界がそのようになったかは一目瞭然である。
この現実を理解できないのは、駄々をこねる子供か
日本国憲法教のカルト信者である。
原発という「危険」に立ち向かい、克服しようとせず、危険から逃げて
避けようとする覚悟の無さで、自主憲法制定も自主防衛も核武装も、
実現など出来るわけがない。
それらを実現するには、原発事故以上の他国からの圧力や孤立を
覚悟しなければならない。
日本人の本物の勇気と行動力が試されるのである。
口先だけの脱原発や核武装、憲法改正など、いくらでも言える。
はっきりしているのは、こういう人々には、元々、本気でそれをやる
覚悟も気迫も無く、おしゃべりに興じているだけなのだ。
彼等は臆病で怠惰な自分を弁護したいがために、血路を切り開くべく
行動し苦闘する人々の背後から、あれこれ言い立て喋り続ける。
彼らには、厳しい現実と全身全霊で戦っている人々の喜びや悲しみ、
苦しみ、誇りが全く理解出来ないのである。
自分が下衆だから他人もきっと同じだろうと考えるのが、
オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で述べた大衆である。
こういう恥を知らない、恥を感じることも出来ない卑劣な「大衆」は、
どの時代にも、どの世界にも棲息していた。
こういう存在には軽蔑の一瞥で十分だ。
自分たちさえ危ないこと(軍隊・原発)を止めれば、世界の平和と安全が
担保されると考えるのは、日本国憲法前文の精神そのものであり、
一種のカルト宗教の世界である。
実際は全く逆であり、危険を恐れ、避けることは、
他国の侵略を招く危険を呼び込む行為である。
そして、近代個人主義に毒された売国卑劣漢たちが
その水先案内人を務める。
今回の原発事故で沸き起こった「脱原発ヒステリー現象」は、
まさに日本国憲法下で日教組教育を受けた戦後日本人の
「刷り込み」が、想像以上に強固であり、
それが原発事故をきっかけに再び目を覚ましたとも言えるだろう。
ゾンビのごとく、リベラル左翼思想が戦後日本人の頭の中に
再び復活したのである。
そして、ひ弱な「戦後保守主義者」達のメッキは、原発事故で
完全に剥がされた。
脱原発ヒステリー現象とそれを主張する人々によって、悔しいが、
日本が独立不羈の精神を取り戻し、主権回復と自主憲法、国軍再建、
核武装を実現する運動は、二十年以上後戻りしただろう。
日本独立と復興の道は、視野に入らぬくらい、遥かに遠ざかった。
しかし、細いながら道はまだ残り、未来に向かっている。
暗いその道を黙々と進む背後では、こそこそとネズミが這いまわり、
カラスたちがうるさく鳴きわめく。
三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい
なかなか良い都々逸で、ふと、こんなことを言ってくれる人でもいたらと
思い、いや、そんな奴がいたら多分外国の工作員だろうなと、
一人で笑ってしまった。