【巻頭エッセイ】
「奇跡の出会い」
日本文化チャンネル桜代表 水島 総
出会いは人とだけではない。
奇跡のような素晴らしい書物との出会い、音楽との出会い、映画など、様々な
奇跡的な「出会い」がある。
十二月初頭に発売される雑誌「正論」に文化と文明の違いについて少々書いた。
オバマ大統領が天皇陛下に謁見したとき、九十度近く深く頭を下げて最敬礼
したことについてである。
アメリカのマスメディアでは、この「出会い」を世界ナンバーワンの指導者として、
やり過ぎだと批判的に報じたらしい。
しかし、これは「文明」と「文化」の違いを考えず、同一視していることから来て
いるのである。
オバマ大統領は、現代「文明」の最高政治指導者として、二千年以上にわたる
世界最古の日本「文化」の最高存在に出会い、深い敬意を表したのだ。
この区別が出来ない「近代主義者」の発想だと、どちらが上だとか下だとかで、
是非を論ずることになる。
オバマ氏は、自身が世界ナンバーワンの指導者である自覚を持っているはず
である。
しかし、天皇陛下が、自分とは全く次元の異なる存在であり、世界最古の国
日本の長い歴史(時間)が継承してきた「文化」の肉体化した姿なのだと感じた
のだろう。
歴史上の理念や政治制度や体制の変化、戦争や征服によっても、変わら
なかった日本文化の最高存在、天皇陛下に、心から敬意を表したのだ。
この文明と文化の違いだが、概略的な言い方をすると、文明は今在る「空間」の
充実と拡大を目指し、政治経済的な制度や仕組み、あるいは物質的な「発展」が
あるが、文化は「時間」を基軸にして、人間から宇宙まで連なる時間との「合一」
「連続性」を実現しようとするものだということである。
次元が全く異なるのだ。
「文化」の概念の中には、芸術のみならず宗教も入っている。
文明と文化の相違を如実に示された陛下の御言葉がある。
御即位二十年に際して行われた宮内記者会見で、天皇陛下は、皇位継承問題
についての質問に、
「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきである
と思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮
の考えが尊重されることが重要と思います。二人は長年私と共に過ごしており、
私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていること
と期待しています。」と御答えになられた。
陛下の御言葉は、政治制度や体制の変化といった「文明」の影響を受ける
「皇位継承の制度にかかわること」と、時間を基軸にした皇統という「文化」としての
「皇室の在り方」とを、次元の異なる事として、はっきり区別されていることを示して
いる。
こういうことに気づかず、「勘違い」する人は、意外と多い。
岡田外相が、国会開会における天皇陛下の「御言葉」を無味乾燥で形式的な
「御言葉」として、表面的にしか捉えられなかったことは、その典型例である。
岡田氏は、国民祝典における陛下の飾らぬ率直な御言葉を、おそらく、政治的に
無色な形式的言葉として理解しただけだったろう。
自身が言葉を表面的、形式的にしか受け取れぬ感性の持ち主だからである。
こういう人物達に文化や芸術は理解出来ない。
例えば、「能」という芸術は、非常に「形」を大事にする。
決められた形、決められた面から生み出される芸術性は、形の美しさと動作が、
例えば「いのち」のはかなさ等の普遍的な「時間」を基軸にして作られている。
だから、「形」を絶対に変えてはならぬのである。
それを文化のわからぬ人は、もっと多くの人々に理解してもらうために、わかり
やすいよう手足を「人間的に」動かしたらどうだろうと見当はずれな提案をするの
である。
天皇存在を文化的存在として考えないまま論ずることは、仏陀とキリストをどちら
が偉いかを論じたり、西郷南洲と大久保利通はどちらが優れているかを論ずる
ようなものである。
大久保、西郷を政治家論として論ずることは出来ても、西郷南洲の存在は、一種
の日本「文化」として日本人の基底意識に通じているから、思想の優劣を論ずる
ことは出来ない。
「敬天愛人」は思想では無い。
一種の宗教的言辞であり、感受出来るかどうかが問われる言葉なのである。
南洲翁の存在がそうであるように、「天皇制度」は論ずることは出来ても、
「天皇」「皇室」存在は、論理を超えた「文化」の次元に在る。
一種の「芸術論」にならざるを得ないのだ。
さらに言えば、私達が人間の「限界」を本当に自覚出来るかどうかが、二十一世
紀の世界や日本を論ずる上での分岐点となる。
つまり、私達は必ずいつか死ぬという腹の底からの自覚を持てるかどうかという
ことである。
その上での思想や理念の展開、そして、希望も憧れも歓びもある。
私はそれを禅から学んだ。
宗教的感情を包摂出来ない思想は虚しい。
このように、次元の違う事柄を同一視し、法律や制度、理念や思想で、人間の
社会や心を変え得ると考えるのは、マルクス主義者や、自由、平等、博愛の
「理念」や「理屈」で世界を良くすることが出来ると考えて来た西欧「近代主義者」
たちである。
残念ながら、一周遅れのトップランナーの如き「友愛」近代主義者鳩山由紀夫
首相には、陛下の深い御考えを理解出来ないし、皇室存在の普遍的、人類的
意義も感受出来ない。
十一月十二日の天皇陛下御即位二十年の祭典には、昼夜併せて延べ六万人の
国民が皇居前に集まった。
天皇皇后両陛下は、夜の国民祭典では二重橋まで御出ましになられた。
陛下は、集まった国民に、
「日本は高齢化の進展と厳しい経済状況の中にあり、皆さんも、さまざまな心配や
苦労もあることと察しています。日本人が戦後の荒廃から非常に努力して、今日
を築いてきたことに思いを致し、今後、皆が協力して、力を尽くし、良い社会を築
いていくことを願っています」と述べられた。
陛下の御言葉に、涙する人々も多かった。
かくいう私も「力を尽くし、良い社会を」と聞いてそうなった。
祈りにも似て、微塵の私心も計らいも無い天皇陛下の真心の御言葉は、参列者の
胸を揺さぶり、私達が忘れていた日本人である「喜び」や「良きもの」「美しきもの」
「誠なるもの」「清らかなるもの」を、胸の痛みにも近い形で、思い出させてくれた。
この御言葉は、政治的メッセージでは全く無いし、思想でもない。
不遜な言い方になるが、あの場所にいた私達は、奇跡のように、最高の日本文化、
最高の日本芸術に出会えたのである。
寒い風の吹く中に立たれる両陛下の御姿に、御風邪を召さねばよいがと心配した
のは、私だけでは無かったろう。
しかし、陛下は「少し冷え込み、皆さんには、寒くはなかったでしょうか」と参列者を
気遣われ、「本当に楽しいひとときでした、どうも、ありがとう」と、述べられた。
再び、涙が出た。
御自身のことより、まず国民や社会、国家を常に気遣われる「国父」としての慈愛
に満ちた御言葉や陛下の御姿こそ、日本人の心の原点であり、二千年以上の
皇統を通して、皇室が絶えず発信してきた「沈黙のメッセージ」である。
「沈黙のメッセージ」の内包する崇高さ、誠実さ、簡素さ、直裁さは、日本「文化」の
真髄であり、様々な政治制度の変化や理念、イデオロギーを超え、時代を超える
「文化」として、現代日本を席巻した欧米「文明」と、静かに対峙して来た。
二千年以上にわたる我が皇室の伝統(皇統)は、どんなに政治制度が変わっても
存続し続けて来た。
世界で唯一無比の現実例となり得たのは、皇室存在そのものが「時間」を基軸に
した「文化」であり、文明的な「制度」や「政治的システム」「思想」「理念」とは異なる
次元に、常に在り続けたからである。
日本の皇室は、私達日本人が考えている以上に、掛け替えの無い貴重な存在で
ある。
なぜなら、皇室と皇統は、二千年以上の膨大な「時間」が生んだ日本民族の無形
の結晶=「魂」だからである。
天皇陛下御即位二十年の国民祭典は、私にとって、おそらく二度とないだろう
「奇跡の出会い」となった。
私にとっての奇跡の出会いの別の例もあげておこう。
音楽との「奇跡の出会い」は、一九四七年五月二十七日のライブ録音盤で、フルト
ヴェングラー指揮、ベルリンフィルハーモニーのベートーベン第五交響曲だった。
この演奏は、フルトヴェングラーがナチス疑惑を解かれ、指揮者として復活した最
初の「運命」の演奏である。
もう余りにも有名な「世紀の名演」であり、知っている人も多いと思う。
レコード解説には「連合軍に破壊され尽くし、衣食住にもこと欠く廃墟のベルリン
にあって、人々はこのコンサートの切符を買うために、大切にしていた靴や嗜好品
さえも手放し、何日も行列に並んだという。舞台にフルトヴェングラーが現れると、
人々は立ち上がって拍手し、狂気にかられたように大声で叫んだと伝えられる。」
と書かれてある。
第一楽章が始まって一分も経たぬうちに、私は自然に涙が頬を伝わっているのに
気づいた。
続いて、胸が熱くなり、喉に塊が出来た。
こんな経験は、生まれて初めてだった。
本当に言葉に表せぬ感動を体験したのである。
これは私だけの体験では無い。
私は音楽レコードやCDを聴くとき、解説を先に読まないようにしているが、この
レコードの解説にも、私と全く同じ体験が書かれていた。
「音楽の偉大さ、人間の偉大さを証明する、これはひとつの奇跡である。いったい
何十回、この世紀の名演奏を飽きもせず繰り返し聴いて、肺腑(はいふ)をえぐ
られるような感動に打ちのめされ、大粒の涙を流したことだろう! どんな雄弁な
言葉も、この偉大な演奏の前にはまったくの無力である。あらゆる言葉をつくし
ても言い足りない。生まれてきて良かった。そして、フルトヴェングラーのこの演
奏に出会うことができて、本当に良かった。それ以外の何が言えようか。
(中略)半世紀を経た今でも、噴火するマグマのように熱く、燃えに燃えたこの
奇跡の演奏記録は生々しく、私たちの人生を変えてしまうほどの衝撃的な『力』
を秘めている。まさにクラシック音楽すべての頂点に輝きわたるであろう、永遠
不滅の名盤なのである。」
奇跡の出会いはある。
本当にある。
日本人に生まれたことも、私達のひとつの奇跡なのだ。