【巻頭エッセイ】

「磨いた石をぶつけると火花を生じる」

                                      日本文化チャンネル桜代表  水島  総

先週の土曜日、西尾幹二先生の主催する坦々塾で講演させていただいた。
タイトルは「道元禅師『正法眼蔵』と私」ということで、一時間半ほど話した。

五十名ほどの塾生の皆さんは、私をチャンネル桜代表の政治的人物として
考えていたらしいので、「禅仏教」を語るとは思ってもいなかったようだ。
意外そうな皆さんの表情がちょっと愉快だった。

このきっかけを紹介すると、以前、西尾先生が討論番組に出演され、その
後一緒に食事をしたとき、偶然、日本文化と西欧文明の違いが話題となった。
私は、その基軸を時間(日本文化)に置くか空間(西欧文明)に置くかとい
った根本的な違いで、それは道元の「正法眼蔵」や「正法眼蔵随聞記」等
からヒントを得たと話した。

西欧近代の発想の基軸には、空間の拡大や充実の意識が中心にある。

詩人カール・ブッセの詩句にある「山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う」
という発想、マゼランやコロンブス、イエズス会、アメリカの宇宙開発等々に
みられるように、「ここではないどこかへ」行けば、何か幸せや黄金の国ジパ
ングがあるという空間移動や空間の拡大が、西欧近代文明の基軸なのでは
ないか。

それに対して、「方丈記」の国日本は、「もののあはれ」「無常」「はかなさ」に
生きる国であり、「一方丈」の狭い空間の中でも、うつろいゆく自らのいのち
の時間と永遠の時間を重ね合わせ、その時間を基軸とした人生を生きること
が出来る国である。

そして、私が考えている禅でいう「悟り」とは、自分の存在(肉体や精神)を
空間的存在であると考えず、「心身脱落」して、自己をして「時間」そのものに
なり切ることが「悟り」なのではないか、そして、日本文化は「皇統」も「神道」
も、同様に「時間軸」を中心に据えていることが、西欧文明と異なる本質では
ないか、そんな話をしたところ、西尾先生が興味を持ってくれ、講演を依頼
されたのだった。

無論、私は本格的に座禅修行してたわけではないが、この「時間基軸論」は、
当たらずとも遠からずの感覚を持っている。
  
仏教の「般若心経」は、法華経と同様、大乗仏教の中心的な教えだが、その
中に「色即是空 空即是色」という経文がある。
色は「物質」という意味で、一般的には、「物質はあって、無い」というように
解釈され、「現実(物質)は存在しているようで存在しない」といったように伝え
られている。

つまり般若心経の「空」は、青空のようなもので、青空は有るけれど、どこまで
空を目指して昇って行っても、青い空は無いというようなものだと言われてき
たのである。
無論、般若心経は大変深遠な教えであり、こういう場で簡単に片づけてはなら
ないことだけは付言しておかねばならない。

しかし、私はこの色即是空の空を「時間」だと、「正法眼蔵」より教えられた。
正法眼蔵は大部の書だが、その中に「有時」(うじ)という章がある。

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」

「山も時なり。海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず。山海の而今に
  時あらずとすべからず。時もし壊すれば、山海も壊す。時もし不壊なれば、
  山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼晴出現す、拈花
  出現す。これ時なり。時にあらざれば不恁麼なり。」

                                                    (「正法眼蔵 『有時』」より)                              

色即是時(空)なのである。

近代西欧哲学では、ニーチェの「永劫回帰」思想において、時間という基軸の
導入を「気づかれて」はいたが、あくまでそれも空間を基軸に据え、空間を流
れる時間としてしか捉えられていなかった。

しかし、二十世紀となり、アインシュタインの相対性理論の「時空」という概念
は、ついに初めて西欧に、「空間」に対する「時間」を不二、同一、同等な概念
として導入したように思われる。

例えを挙げれば、「光速で宇宙空間を移動すると時間の進行が遅くなる」と
いう有名な話である。
しかし、さらに、この時間と空間を同等に見る時空概念を超えて、時間その
ものを基軸に据えたとき、「天地一杯、宇宙一杯」の如来出現(悟り)が起こる
ように思われるのである。

お釈迦様は、紀元前からこのことを気付いていたのである。

何か難しい話になったので、ここらでやめておく。
西尾先生からは、講演後、大変なおほめの言葉をいただき、文字にしたいと
の申し出を受けた。
ありがたいことである。
  
講演の最後に、道元から教えられた自分の心構えについて話した。

「生死事大 無常迅速」についてである。
これは、禅修行者に対する厳しい戒めの言葉として有名だが、私は道元の
「典座教訓」のエピソードに当てはめて皆さんにお話しした。

ある暑い日の昼間、道元はひたすら豆の皮をむいている寺の老料理人(典
座)に、暑いから涼しくなってからやったらどうだ、後輩の若い人にやらせたら
どうだと、労わりの声を掛けたそうである。
その時、老典座は道元を厳しくたしなめ、「あなたは修行が全く足りない、
これは私の命がけの仏道修行だ、私がやらねば、誰がやる、今、やらねば、
いつ、できる」と言って、黙々と仕事を続けたという話である。

もうひとつは、ある禅師の話である。

汚れた石をどんなに磨いても、金剛石(ダイヤモンド)にはなれない。
石はいつまでも石である。
しかし、磨きに磨いた石と石をぶつけ合わせると火花が出る。
火花は火となり、遼火となって野や山を焼き尽くすまでになる。

「草莽崛起」とは、そういう思いである。
自らが泥にまみれたまま、石同士で、互いをののしり合い、ぶつけあっても、
火花は起きない。
私たちは石である。
しかし、磨かれた石でありたい。

そう話して講演を終えた。

さて、二千人委員会も九月になり、一周年を迎える。
委員数一千八百人を超えることが出来た。
これも全て日本草莽の皆様のご支援、ご指導のおかげであり、この二千人
委員会の皆様のお名前をテレビ画面で見るたびに胸が熱くなる思いがする。

経済不況の中、大変高額なお金を毎月工面いただき、
心より御礼を申し上げたい。
同時に、昨年の九月に一年分を一括してお支払いただいた皆様には、
是非、どんな形でも結構なので、継続していただければと願っている。

政権交代によって、ますます私達の存在意義が高まり、同時に風圧も強まる
だろうと予想している。
私たちは、日本で唯一つとなった草莽テレビ局として、皆様の思いにおこたえ
する為にも、「草莽崛起」「敬天愛人」の社是とともに、これからも独立不羈の
姿勢を貫いていきたい。
  
どうか、共に歩まんことを。

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