【巻頭エッセイ】
「花が美しいのではない、美しい花があるのだ」
日本文化チャンネル桜代表 水島 総
先週、ついにNHK集団訴訟の原告数が一万人を突破した。
原告になられた人々は、「組織票」では全く無い。
NHKの不正と捏造行為に対して起ち上がった個々の日本草莽の人々で
ある。
若い人も多い。
戦後六十余年、この国難とも言える時代にあって、ついに、国を憂い
無私の魂で草莽崛起した新潮流が日本に生まれ始めたのである。
その中心にチャンネル桜がいられたことは、まことに誇らしく嬉しい。
また、先週のメルマガでもお知らせしたが、日本文化チャンネル桜は、
九月から二十四時間の放送形態を一旦休止して、五月以前の
「間借り」放送に戻らなくてはならなくなった。
やむをえない事情からだが、非常に多くの方から、胸にしみる激励の
手紙やファックス、電話をいただいた。
心より感謝申し上げたい。
元々、私自身、日本文化チャンネル桜の創立と展開を「収益事業」とは
考えず、何とかトントンに持ち込めるか、少しでも収益が上がればと
願って来たが、無理なことは自明だった。
まともな経営者だったら、チャンネル桜の事業が収益を上げるビジネス
モデルとは考えない。
まともな経営コンサルタントだったら、全面撤退を進言するだろう。
五年前、 日本文化チャンネル桜を創立して以来、第二のチャンネル桜が
生まれないことが、それを良く示している。
先週も御知らせで書いたが、儲かるだろうから、うまくいくからやる、
うまくいかないからやらないのではない。
日本にやるべきことがあるから、それを行うべく起ち、日本草莽の皆さん
と共に行うのである。
なぜなら、我が国は、間違いなく激烈な情報(謀略諜報)戦争の真っ只中
に置かれているからだ。
このままいくと、「戦争」が起こらなくても、情報戦争によって、「日本」が
消え「ニッポン」に変わるからである。
戦後日本人には、その自覚が極端に薄い。
保守系の雑誌でさえそのように見える。
既に、単に右が良いか左が良いかと議論している「平和」な冷戦時代は
終わっている。
それぞれの国が死活を賭けて、国益実現の為に、ありとあらゆる汚い手段
を使い、情報(超限)戦争に参戦し、必死に戦っているのである。
私自身も、日本人が大らかで直ぐに他人を信ずる平和的な国民性を持つ
ことに喜びと誇りを感じているが、他国の人々は必ずしもそうでないのだ。
日本文化チャンネル桜は、日本人の基底にあるものを掘り起こし、先祖が
営々として築いてきた長い歴史と伝統文化を伝える為に創立された。
情報戦争の先頭に立つことは、当初、第一目的として想定されていなかっ
たが、いつの間にか、振り返ると「先頭」部隊のひとつになっていることを
自覚するようになった。
NHKとの戦いは、その背後に蠢く外国勢力や売国勢力との「正面戦」である。
これからも非常に困難な戦いが続くだろう。
我が国を取り巻く長い情報戦争の中では、さまざまな戦闘局面がある。
負け惜しみで言うのではないが、今回、二十四時間放送からの一時撤退を
余儀なくされたが、六月から八月までの総選挙を含む激動の時期を、
四時間という長い「時間の砦」を確保したことに、私は誇りある撤退だと
考えている。
戦いはこれからである。
道は険しく遠いだろうが、チャンネル桜は、絶対に負けないし、屈しない。
「お前より強い相手はいくらでもいる。だから、勝てなくてもいいから、
絶対に負けるな、屈するな、それが一番大事なことだ、それでいい」
以前も書いたが、腕白小僧で上級生たちと喧嘩ばかりしていた私に、
父が教えてくれた唯一とも言える教訓だった。
ベトナム戦争を見て、私は父が正しいと確信した。
腐敗した巨大メディアNHKの姿は、私から見ると戦後日本そのものである。
今、NHKと日本草莽との戦いは、単なるマスメディアの不正捏造を正す
戦いを超えて、戦後日本の在り方そのものを問うものとなっている。
この日本草莽の戦いは、何よりも日本人の心の基底にある「不正」を憎み
「嘘や捏造」を嫌う清らかなる心から草莽崛起が起きた。
だから、戦いはまだまだ続くが、負けることや消滅するようなことは無い。
今回の二十四時間放送撤退について、日頃からチャンネル桜を快く思って
いない人々の中には、「ざまをみろ」と、まるでチャンネル桜がつぶれると
勘違いして狂喜する人々もいた。
しかし、冷静になって、全く違ったことが分かり、今度は更に憎しみを倍加
させ、私やチャンネル桜に対する有ること無いことを取り交ぜて、意地悪な
ネガティブキャンペーンを展開したりする姿も散見された。
勝手にやっておれ、と一言で片づけるだけのことだが、こういう種類の人々
の行為やその思いを考えることは、戦後日本人というものを考える上で、
私には興味深いことだった。
というのも、必ずしも「左翼」の人達だけが「悪口」を言ったのではなく、
いわゆる「保守」の人達の中にも、公然とではないが、チャンネル桜や私に
反発したり、悪口を言う人がそこそこいたからだ。
確かに、私個人について言えば、まことに不徳の致すところで申し訳ないと
謝る他ないが、同時に、そういう人の憎悪の心性を考えたとき、濃い薄いは
あっても、根底にある「妬み、嫉み」は結構、日本人共通のものではないか
と思ったのである。
これは反面、天皇の下に万民平等の意識から発生した負の部分かもしれ
ないと思ったりする。
もう一点は、右左の立場を超えて、自分の考えに少しでも異なったり、反する
部分があると、相手を「敵」のように見做す人が意外に多いことだった。
真面目で真摯に「思想」や「イデオロギー」を考える人に多いのだが、これは
スターリン主義に代表される近代主義的思考の人に多く見受けられ、同時
に、ある種の思想やイデオロギーを確かなものと信じている「原理主義者」
とも言える。
例えば、靖國神社の「みたままつり」の賑わいや出店に批判的で、靖國神社
はもっと厳格で神聖であるべきだと主張する方達である。
確かに正論である。
だから、こういう方達は、「行動」の幅や歪みやはみ出しを許し難いものに
見てしまう。
NHKの抗議運動についても同様である。
こう「あらねばならない=must」の発想ばかりで、NHK解体Tシャツや替え歌等
を批判する。
行為というものが全て相対的であることが分かってもらえない。
西欧や支那朝鮮の陶器はほとんどきちんと均斉のとれたものが多いが、
縄文土器の時代から、日本には意識的な歪みや不均衡な茶器などを美として
意識できる感性があった。
もっと言えば、この原理主義的近代思考に対峙するものが、日本的感性の
ような気がする。
小林秀雄に「花が美しいのではない、美しい花があるのだ」という有名な言葉
があるが、「花(概念、原理)が美しいのではない。美しい花(命、人、行為)が
あるのだ」という意味に私はとらえている。
西欧の生け花には、つぼみの美しさを評価する感性は無いそうである。
しかし、この感性こそ、歪みや不均衡や途上の美しさを愛でることの出来る
日本人本来の「もののあはれ」に通ずるものだ。
敢えて強引に、NHKの抗議運動について言いかえれば、「NHK抗議運動の
思想が美しいのではない、様々な試行錯誤を繰り返しながら悩み、苦しみ、
希望し、NHK抗議に起ち上がった個々の日本草莽が美しい」のである。
運動のための思想や原理はとても大事だが、私はそれ以上に
「止むにやまれず」草莽崛起した日本草莽の人々の思いをより大事にしたいと
考えている。